藤原氏の家系図の覚え方!順番がコツ【日本史】


そもそも藤原氏とはいったい誰?

大学受験において藤原氏といえば皆さんは平安時代を思い浮かべるかと思いますが、そのルーツはもうすこし前まで遡ります。

大化の改新という出来事ご存知でしょうか。飛鳥時代、政治の主導権を乗っ取り横暴をおこなっていた蘇我氏を滅ぼしたところから始まった政治の改革です。この改革の中心人物であったのが皇族であった中大兄皇子、そしてその盟友、中臣鎌足でした。中臣鎌足が死ぬ直前、天智天皇に即位していた中大兄皇子から、中臣鎌足は名を賜ります。天皇から名を授けられることは「賜姓(しせい)」とよばれ大変な名誉とされておりました。こうして中臣鎌足は新たに「藤原鎌足」とし、自身の子孫にあとを託してこの世を去ったのでした。これが藤原氏の始祖であり、のちの奈良時代から平安時代には天皇家と大きく接近する形で政治権力を得る存在になっていきました。

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2.藤原氏の家系図を見てみよう

(引用元URL:https://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/hujiwarakeizu.htm)

上図が藤原氏の家系図です。まず一番左端にあるのが、全ての藤原氏の先祖にあたる鎌足です。その子として生まれたのが藤原不比等でした。彼は、奈良時代が始まる直前、日本初の律令である大宝律令の制定に携わるなど、多くの才を発揮した人物です。優秀であった彼の死後にはいわゆる藤原四子と呼ばれる四人の子が生まれ、奈良時代の政権争いに参入していくことになりました。四子はそれぞれ、南家、北家、式家、京家、とのちの藤原氏の分家の始祖にもなりました。

その中で平安時代に権力をもつことになったのが、北家でした。薬子の変という天皇家の争いにおいて、嵯峨天皇に加担した藤原冬嗣がそのきっかけを作ったといわれています。以降、摂政や関白など天皇に代わって政治をおこなう摂関政治を実現させながら、藤原道長頼通などのよく知られた人物まで北家の栄華は続きました。

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3.主要な人物を抑えよう!

それでは、藤原氏における主要人物をご紹介します。時代ごとに記載してあるので、順番に確認してください。

※今回は、政権に大きく関わった人物をピックアップしています。

 

【飛鳥時代】

藤原鎌足

旧姓中臣鎌足として、中大兄皇子とともに大化の改新に尽力しました。以降の藤原氏の祖先にあたる人物です。

 

藤原不比等

鎌足の子として、701年に大宝律令の編纂と制定に携わりました。のちに制定される養老律令の編纂もおこないました。

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【奈良時代】

藤原四子

不比等の四人の子どもの総称です。それぞれが藤原氏の分家の始祖となりました。ちなみに4つの分家は、南家:武智麻呂北家:房前式家:宇合京家:麻呂です。四子は妹にあたる光明子を聖武天皇の妃とすることで天皇家と急速に接近し、発言力を高めました。

 

藤原百川

権力争いの絶えなかった奈良時代の終わり頃、それまでの天武天皇系の血筋から、天智天皇系の血筋の人物である光仁天皇を新たに即位させた人物です。この光仁天皇の子にあたるのが桓武天皇となります。

 

【平安時代】

藤原冬嗣

810年、桓武天皇の子である嵯峨天皇と平城太上天皇の争いである薬子の変が起きました。この時、嵯峨天皇側につき、蔵人頭に任命されたのが冬嗣です。藤原氏は天皇家との結びつきを強める形で力を伸ばしていきました。また彼は藤原北家の出身でしたので、以降は北家の力が強大なものになりました。

 

藤原良房

冬嗣の子として、ライバルにあたる一族を政権から追放していきました。これを「他氏排斥」といいます。

良房は842年、承和の変にて伴健岑と橘逸勢を政界から追放しました。また、当時9歳であった清和天皇の摂政として実権を握ることに成功します。その後、866年の応天門の変では源信に罪をかぶせようとした伴善男を流罪とするなど、一層力を強めました。

 

藤原基経

良房の養子として次の実権を握り、当時の陽成天皇も幼少であったために摂政として力をふるいました。ですが陽成天皇と仲違いを起こし、当時55歳の光孝天皇を即位させます。これにより良房は実質的な関白の位置をも手にすることになりました。

その後の宇多天皇にも再び関白に任命されますが、この文書の内容に対して文句をつけて撤回させるなど、藤原氏の権威をみせつける出来事が起こりました。この出来事を阿衡の紛議といいます。

 

藤原時平

宇多天皇の子であった醍醐天皇は、藤原氏に頼らない親政をおこなっていました。その側近であったのが右大臣の菅原道真です。一方左大臣には時平が任命されたのですが、両社は対立することが多く、時平は道真を九州の大宰府に追いやってしまいます。これを昌泰の変といいます。

 

藤原実頼

969年、安和の変にて源高明を大宰府に左遷しました。これで藤原氏の他氏排斥は完了となり、以降は藤原北家から摂政と関白が常に就任するかたちとなっていきました。

 

藤原道長

他氏排斥が完了した後におこったのは藤原家内部でのトップ「氏の長者」争いでした。これに勝利したのが道長です。また彼は、4人の娘を天皇に嫁がせて生まれた男児を次々に天皇とするなどして天皇家との関係を強固なものにしました。母方の血筋を外戚と呼ぶので、このような方法は外戚政策とよばれました。

 

藤原頼通

道長の子として、3人の天皇にわたり、およそ50年間摂関政治をおこないました。また彼は、当時流行していた浄土教の影響から、現世に極楽浄土を模した建造物として平等院鳳凰堂を建てたことでも知られています。

絶対的な権力をもっていた頼通でしたが、天皇と天皇家に嫁がせた娘との間に男児が生まれませんでした。こうしたことから次の天皇に影響力をもつことができなくなり、藤原氏の権力は急速に低下することになりました。

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